日本文学界最後の巨人・筒井康隆による老人文学の傑作『敵』に『桐島、部活やめるってよ』『騙し絵の牙』の吉田大八が挑む。 俳優歴50年を迎える長塚京三が、12年ぶりに映画主演を務め、熟練のスタッフと俳優たちが紡ぐ、人生最期の「讃歌」。 原作は、『時をかける少女』『パプリカ』などの大人気SFから、『文学部唯野教授』のようなメタフィクションまで数々の作品を生み出してきた筒井康隆。 過去には文壇からのバッシングを受け、断筆していた期間もあったが、執筆再開後の1998年に『敵』は書かれた。 紆余曲折の人生を生きてきたからこそ辿り着いた現代老人文学の最高峰ともいえる本作では、妻に先立たれ、残された預金を計算し、人間関係を清算し、捨てきれない欲望と向き合いつつも、いつか来る終わりに向けて、慎ましやかに夢と現実の間を生きる元大学教授の清らかな暮らしが描かれるが、その先には筒井流の一筋縄では行かない「仕掛け」が待っている。 近年は監督・脚本を手掛けた『騙し絵の牙』など、数々の作品で確実に映画監督としての円熟味を増した吉田大八。本作では、自身が長年の愛読者でもあったという筒井康隆の小説を自らの手で映画化。原作を忠実に表現すると共に、繊細さと力強いエッセンスを、映像でしか成しえない手法でスクリーンに結実させている。 『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』(97)で第21回日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞し、今年俳優歴50年を迎える名優・長塚京三が演じるのは渡辺儀助、77歳。健康でいること、散財しないこと、丁寧に暮らすこと、欲望を飼いならすこと、老いること、全てに気を配り、日常を管理し節制した平穏な日々を送る元大学教授。妻に先立たれ、講演や執筆といった臨時の収入も減っていくなか社会から必要とされなくなったことを実感し、あと何年で預金が底をつくかの計算に余念がない。しかし、その一方で自身のプライドは保ちつつ、誰かを傷つけることもなく、限られた僅かな交友関係の中で、充足感に満たされてもいる。老い先が短いことを自覚する儀助にとって、新たに挑戦することが少なくなり、退屈を手なづけ、これまでの人生を振り返ることが多くなる。そして、次第にその光景は現実なのか、夢なのか、儀助だけではなく、観ている我々ですら分からなくなっていく。やがてその描写は恍惚の世界へとダイブするような没入感を与えてくれるのだ。 極めて緻密でプライベートな描写によって、我々はいつの間にか儀助の亡き妻・信子(黒沢あすか)を家族のように感じ、教え子の鷹司靖子(瀧内公美)、バーで出会った菅井歩美(河合優実)に恋をしてしまう。 そんな平穏な暮らしのなかで「敵」はある日突然現れる。そして、じわりと近づいてくる。 自由に生きることへの羨望と、老いることへの絶望の狭間で、人生の最期に向かって静かに、そして清らかに暮らし、そのまま静かに終わっていくひとりの男……人間はそんな生き方を望んでいるのだろうか。本当は「敵」の襲来を望んではいないか。 全ての人に等しく訪れるであろう「敵」を見事なまでに映し出した、人生最期をどう締めくくるかを問う、心揺さぶる人間ドラマが誕生した。
渡辺儀助、77歳。大学を辞して10年、フランス近代演劇史を専門とする元大学教授。20年前に妻・信子に先立たれ、都内の山の手にある実家の古民家で一人慎ましく暮らしている。講演や執筆で僅かな収入を得ながら、預貯金が後何年持つか、すなわち自身が後何年生きられるかを計算しながら、来るべき日に向かって日常は完璧に平和に過ぎていく。収入に見合わない長生きをするよりも、終わりを知ることで、生活にハリが出ると考えている。 毎日の料理を自分でつくり、晩酌を楽しむ。朝起きる時間、食事の内容、食材の買い出し、使う食器、お金の使い方、書斎に並ぶ書籍、文房具一つに至るまでこだわり、丹念に扱う。 麺類を好み、そばを好んで食す。たまに辛い冷麺を作り、お腹を壊して病院で辛く恥ずかしい思いもする。食後には豆を挽いて珈琲を飲む。食間に飲むことは稀である。使い切ることもできない量の贈答品の石鹸をトランクに溜め込み、物置に放置している。 親族や友人たちとは疎遠になったが、元教え子の椛島は儀助の家に来て傷んだ箇所の修理なども手伝ってくれるし、時に同じく元教え子の鷹司靖子を招いてディナーを振る舞う。後輩が教えてくれたバー「夜間飛行」でデザイナーの湯島と酒を飲む。そこで出会ったフランス文学を専攻する大学生・菅井歩美に会うためでもある。 できるだけ健康でいるために食生活にこだわりを持ち、異性の前では傷つくことのないようになるだけ格好つけて振る舞い、密かな欲望を抱きつつも自制し、亡き妻を想い、人に迷惑をかけずに死ぬことへの考えを巡らせる。 遺言書も書いてある。もうやり残したことはない。 だがそんなある日、パソコンの画面に「敵がやって来る」と不穏なメッセージが流れてくる。 いつしかひとり言が増えた儀助の徹底した丁寧な暮らしにヒビが入り、意識が白濁し始める。やがて夢の中にも妻が頻繁に登場するようになり、日々の暮らしが夢なのか現実なのか分からなくなってくる。 「敵」とは何なのか。逃げるべきなのか。逃げることはできるのか。 自問しつつ、次第に儀助が誘われていく先にあったものは――。